第三の裁きである「バベルの塔を巡る事件」の前に第二の裁き、すなわちノアの大洪水がある。この洪水については、創世記六章から九章まで四章に亘って詳細に記されており、クリスチャンはもとより、そうでなくても多くの人々が関心を持ち、広く知られている大事件である。それで、このシリーズにおいては、ノアの洪水を取り上げるのは後に回し、余り知られていない第三の裁きを先に学びたいと思う。

(1)箱船に救われた4組の夫婦

箱船によって洪水を生き延びたのは、ノア夫婦と三人の息子たちセム、ハム、ヤペテ及びその妻たち、合計八人だけである。当時どれ位の人々が地上に住んでいたのか分からないが、アダムが創造されてからすでに1600年以上経っていたと思われるので、何千万~何億人という人々が住んでいただろうと想像される。その人々が主の裁きによりことごとく洪水に呑まれてしまったのである。動物たちも、主の指示に従って船に誘導された個体以外は、ことごとく洪水の藻屑となってしまった。

ノアに子どもが何人いたのか分からないが、箱船に入ったのは三人の息子たちと彼らの妻たちだけである。前にも述べたが、ノアの妻がどこから来たのか、どういう名前だったのか、箱船の中でどのような働きをしたのか具体的には分からない。三人の息子の妻たちについても同様に、その出自も名前も書かれていない。

大きな箱船ではあったが、主の命じられた通りに収容した数多い動物たちの世話をしながら過ごす空間は、快適であったとはとても思えない。換気は何とか確保出来ていただろうが、閉じ込められた狭い空間で空が見えず、採光のために開けられた窓から射し込む僅かな光の中での生活は楽ではなかっただろう。ましてや事情が分からない動物たちにとって、置かれた環境は心が荒ぶるに充分なほどに大変な状況だっただろう。ほんのちょっとした物音にも敏感になっていただろう動物たちが、穏やかに時を過ごしてくれるよう、様々な配慮が必要だっただろう。

こうした患難の中さしたる事故もなく、洪水後、箱船に救われた八人も、動物も全て主に導かれて乾いた土に降り立ったと聖書は伝えている。主の護りの下に、人も動物も船から土の上に降り立てたのは、ノアと息子たち、そして出自も名前も聖書には明らかにされていない女性たち四人、合計八人の人々が力を合わせて働き、船の中の生活を維持したからだと思われる。このことは聖書にはさりげなく書かれているが、彼らの働きは絶大であったと思われる。この大変な状況を無事に乗り越えるために、彼らは全員協力をして重要な役割を果たしたのである。

(2)ノアの子孫

大洪水の後に箱船から出たノアの息子たちは、それぞれが住む地を見つけて栄え、子孫を豊かに与えられた。ヤペテはゴメル、ヤワン等七人の子どもを授かって栄えた。セムの家系は、セムから四代目ペレグを経て、アブラハム、ダビデと続き、そしてヨセフ、マリア夫婦のもとにイエス様がお生まれになる家系である。

末の息子ハムには、クシュ、ミツライム、カナン、プテが生まれた。ミツライムはペリシテ人、カナンは悪名高い町ソドム、ゴモラなどを築いたカナン人である。クシュの家系に生まれたニムロデが絶大な権力を獲得し、強大な王国を築き上げた。神を無視して自分中心に思いのままに全てを操り、国を権力下に置いて治めたのである。

私たちが驚くのは、彼らは同じ言語を使っていたと記録されていることである。どのようにしてそれが保たれたのか分からないが、現代に生きる私たちには凡そあり得ないことに思われないだろうか?海に囲まれた、言わば海に依って守られ、外部から遮断されて歴史を歩んできたこの小さな島国日本でさえ、言語が一つであるとは言いにくい現状である。標準語が設定されているので、その限度内で辛うじて意志の疎通が可能になっているだけであり、生活用語はいくつかに分けられ、互いに意志の疎通はかなり困難な言語になっている。

さて、その人々は、シヌアルの地に平地を見つけて定住した。そして、主に支配されることを嫌い、自分たちだけで我が儘一杯に過ごそうとして、様々な試みをした。様々な技術を駆使して町を建て、主が「我々を全地に散らされないように、天まで届く塔を建設して名をあげよう」と豪語した。彼らが何をどのようにしようとしたのか、どのような塔を建設しようとしたのか、天まで届く塔とはどの位高い塔を考えていたのか、上っていって何をしようとしたのだろう。

雲の上に神の国が、美しい天国があり神が鎮座しておられると思ったのであろうか?もしかしたら素朴にそう信じていたのかも知れない。

(3)二十一世紀のアダムの子孫、即ちノアの子孫

時代が下って唯物論的哲学が蔓延している現代でも、日本では「神(神道の神・天照大神?)」を語り、死後は何か、どこかは分からなくても漠然と「天国」へ行くと思っている人は驚くほど多い。又、このような信仰とどれ位関係があるのか分からないが、殆どが御利益信仰である。拝む対象は狐でも狸でも象でも蛇でも何でもよいらしい。手を合わせておけば、自分が欲しいものを「与えてもらえるかも」という淡い信仰である。純情と言えば純情、愚かと言えば愚かかも知れない。

そして、クリスチャンはそれぞれの信仰にしたがって、様々な天国像を描いている。このことを掘り起こすと物議を醸しそうであるので控えておくが、クリスチャンと一口に言っても様々な考えがあることは事実である。

いわゆるクリスチャンの国々ではどうであるのかよく分からないが、ただ時代と共にしっかりとイエスキリストを信じる信仰は下火になって来ているようで残念な限りである。