天も地も、又地におかれた動物も含めて全てのものが、人を住まわせるために創造された。言葉を換えれば、これら全てに支えられなければ、人の地上での命は維持できないということも意味しているのであり、このことには余り目が留められていないかも知れない。地球は人をも含めて一体となって相互に支え合って存在するように、秩序正しく統率されて創造されたのであり、その輪の中心に人が置かれたのである。そして、人はこの地球全体を管理・維持する任務を神に与えられたのである。

(1)創造

神は仰せられた。「光があれ。」すると光があった(創世記1章3節)。

この光は「光」であって、光とは「〈粒子性〉と〈波動性〉を併せ持つ」存在として理解されている。…と説明されても、一般人にはよく分からないだろう。狭い格子戸の隙間から暗い室内に漏れ入る光を思い起こしてみると多少理解出来るかも知れない。ただ、光は光という実態であり、太陽ではない。太陽は光を発する光源であり、大きさは比較にならないが電球が光源であるのと同じである。

その後に、水を一所に集め海と名付け、乾いた所を地と名付けて地上を整えられた。創造の過程はすべての段階において、「人を住まわせるために」整備されたのである。

(2)植物の創造

上の水と大空と地とを分かたれた後で、神は地上に植物を生じさせられた。植物は種子を持っており、樹木は実が成っている状態で、それぞれ種類にしたがって創造された。成熟した植物としていきなり地上に生じさせられたと理解するのは、人間には理解しにくいかも知れない。人間の考えでは、植物は、まず土に種を蒔き、水を注ぎ、芽が出たら光を当てて育てるのが常識である。しかし、聖書には人の常識を覆した創造の過程が記載されている。

さらに、植物は種類にしたがって創造されたと書かれている。植物は備えられた遺伝情報に従って、子孫を増やしていくという性質を与えられており、その遺伝情報は基本的に動物と同じDNAである。そのためも相俟って、人間の学問は植物を生物と見なしているものの、一応動物とは全く異なった種類の分類項目に入れている。しかし、創造主はいのちあるものの食物として(創1:29-30)、又環境を整える要因として植物を地上に配置されたのであり、命あるものとは見なされていない。

こうして、光が注がれている地上には、花が咲き、緑豊かな大小様々な樹木には実が成っている、すなわち、すでに成熟した植物を主が備えられたのである。こうして、創造の三日目を終了された。整理をしておくと、光が造られ、全てを支えるための空気が整えられ、水で包まれていた地球が整備され、海と天とそして地が分かたれた。その後に、成熟した植物が主の御手によって創造されて地上に然るべき姿に置かれた。空があり海があり地上には光が満ちており、花が咲き緑の木々が生い茂って、豊かな地球が完成されるのを待ち構えている状況である。但し、断っておこう。太陽はまだ造られていないし、月もそして星もまだ造られていない。

(3)天体の整備

進化論に毒されている人類は、この創造の順序に戸惑ってしまう。何故、植物が先に創造されて、その後に太陽や月が創造されるのだ?順序が違うのではないかと決めつけてしまう。しかも、光の創造は1日目に書かれており、この光は太陽だと思い込んでいるので、ますます頭が混乱してしまう。光とは太陽だと思い込んでいる人間の頭は、太陽と切り離して光という実態を理解出来ないので、光という物質が神によって創造されたことは受け容れられないのである。

だが、光の実態はすでに創造されており、太陽は光源として創造され、また月、無数の星が宇宙空間に創造された。大きな太陽には昼を、小さい方の月には夜を司らせ、しるしのため、季節を分かつために、地球全体を支える天体を整備なさったのである。こうして地球を取り巻く全ての環境を整備し終わって創造の四日目を終了された。

(4)創造の一日は24時間

夕があり、朝があった。第四日(創世記1章19節)。

ここで、創造の一日について、少しだけ説明しておこう。創造の第一日に始まり、一日一日生真面目にと言うべきか、律儀と言うべきか、びっくりする程きっちりと「夕があり、朝があった。第~日。」と創造主は記載されている。「夕があり、朝があった」ということは、地球は一日(24時間)に一回、規則正しく自転していたことを示している。そして、その一日、一日の間に創造の御業がどのように進められたかを明確にしておられるのである。そして、六日間で創造の御業は全て完了し、第七日に完成したことを宣言し、この日を祝福し、聖であるとなさったのである。