(1)土から造られた人

神である【主】は土地のちりで人を形造り、その鼻にいのちの息を吹き込まれた。そこで人は生きものとなった。(創世記2章7節)

「生き物を生み出せ」と主が地に命じられたので、動物が地から生み出された。その同じ土を用いて、主はご自身の手で人を形造られた。動物の体も人の体も同じ土から造られたが、その過程には天と地の相違があり、動物の創造は単に「生じよ」と主は命じておられる。一方、人の体は動物と同じ材料を用いられたが、ご自身の手でお造りになった。

主の創造の御業を少し思い巡らしてみよう。私たちが創世記を読んで創造の御業を考えるとき、人の作業と同等の思索を当てはめてしまいがちである。だが、全知全能の神は聖書の最初に大宣言をしておられるように、初めの初めから最後の最後まで全て企画は済ませておられて、歴史がどのように紡がれるか、そして最後にどうなるか、全てを見通しておられたのである。

では、最後の最後って、どこまでなのか?アダムが禁じられている木の実を食べて叛逆をするところまで?ノアの洪水まで?或いは神の御子イエス・キリストを地上に遣わされるところまで?イエスキリストのご生誕は「不思議な助言者、力ある神、永遠の父、平和の君」として、実はご生誕の700年以上前のイザヤ書(9:6)に預言されている。

キリストの十字架も、イザヤ書53章に「…彼の打ち傷によって、私たちはいやされた。」と預言されている。或いは人類が世界戦争によって地球崩壊の足掛かりをもたらすまですでにご存じだったのか?そして同じイザヤ書11章には、キリストの御再臨後の千年王国の平和な様子が預言されている。

主は創造の初めに私たちのために時を定められたが、創造主が時間や空間の外においでになる方であるのに対して、私たちは小さな体・土の器に束縛されて時間軸の中で地上に生きており、肉体の「死」が訪れるまで、それを乗り越えることは出来ない。主は初めの初めから全てを定めておられ、その前提の下に、地球史・人類史がどのように推移していくか全てを見通しておられたということは、聖書に明らかである。

(2)いのちの息

土から肉体をお造りになった後に、神は「鼻にいのちの息を吹き込んで」生きた人とされた。やがて滅びる肉体は動物と同じ土から造られ、その体にあらかじめ準備されていた神の霊、アダムとエバが吹き込まれたのである。

神のご計画は最後の最後まで綿密に企画済みである。クリスチャンは「全知全能の神」とあっさり言ってのけるが、全知全能の具体的内容を指摘されるとエッと思ってしまうのではないだろうか。しかし、雀一羽でも、神の許しなしに地に落ちることはなく、私たちの髪の毛の数までご存じなのである(マタイ10:29,30)。常に新陳代謝しており、時々刻々変化する髪の毛の数がどうしてお分かりになるのだろうと、ふっと思わないだろうか?(このことは次項にて少し詳述する)。

全知全能の神は、最後まで計画を済ませておられ、どの親の元に、どのような人を何名生まれさせるか、霊魂体全てに関して、世界を創造なさった始まりの時に、決定済みなのである。私たち一人一人、母親の胎で卵子への受精の完了と同時に、神は世界の始まりの時に準備しておかれた霊を吹き込まれたのである。私たちのいのちは、神のご計画によって与えられたということの具体的なことは、こういうことなのである。 

(3)神のかたち

神は人をご自身のかたちとして創造された。神のかたちとして彼を創造し、男と女とに彼らを創造された。(創世記1章27節)

人は「神のかたちを頂いた」、「神の霊を頂いた」尊い存在であるという認識は、クリスチャンは誰でも大なり小なり持っているだろう。

3-1 神は愛なり

神のかたちは聖書に詳細に紹介してあるが、やはり「神は愛なり」の一言が最も貴重な御性質だろう。さて、安易に「神は愛なり」と言っても、本当はなかなか実態をつかまえにくいのではないだろうか?そもそも、人間は愛を失った存在であるために、愛を理解することなど出来ないのである。

3-2 愛という言葉

新約聖書が書かれたギリシャ語には、「愛」を表す言葉が4種類もある。①アガペー、人間同士の関係性を超越した神から与えられる無償の愛;②ストルゲー、主として血縁関係に生まれる愛情;③フィリア、男女を問わず、性愛を伴わない愛;④エロス、男女間のロマンティックな愛。

日本語にも、愛の内容を表す言葉は、慈しみ、慈愛、慈悲、思いやり、敬慕、優しさなど、豊かにある。そして、②に該当する言葉は、家族愛、③に該当する言葉は友情、或いは師弟愛、④に該当する言葉は恋、情念などである。しかし、①に該当する言葉は無いように思う。神を知らない民族にこのような言葉が生まれるわけがない。

「神の愛」・アガペーは、背いた者さえなお見捨てないで、追い求めて救おうとされる、ご自身がお造りになった大切な者として包み込み、赦して、計り知れない包容力を持って、その者のために最善を為して下さる、とでも表現しようか。

3-3 聖・正義・完璧・公平

「愛」そのものである方の同時に重要な御性質は、完璧・公平であり、正しい判断をされる究極の正義であり、正しい方であるということである。人間の思考では、愛と正義という概念は両立するのかと、ふと疑ってしまうかも知れない。実際、時として抗う状況にさえ陥りかねない。このような神のかたちは、人間には理解を超えることであるので、神学者や識者によって様々に説明されているが、説明としては理解しても、納得できるレベルには遙かに遠い。

3-4 知恵・知識・永遠・時、空間を支配

永遠であり、時を支配しておられる神は、ご自身の御姿を映して、愛を込めて人を創造なさった。神より多少劣った者としてお造りになったのである。

こうして、人の可能な言葉を用いて創造主のお姿を描き、そしてその御姿を頂いたことを栄誉と思いつつ、それが大きく損ねられてしまっている現実を私たちは受けとめざるを得ない。しかし、いつも言うのであるが、人が神に背き、背き続けているにも関わらず、与えた素晴らしい賜物を全て没収されなかったということである。それは、上に述べたように、背いた者をも見捨てられない大きな「アガペー」の故に、留め置いて下さったので、今もなお、人は存続し、曲がりなりにも正しいことを求め、互いに慈しみ合う心を保とうとしている。

3-5 全知全能の創造主・神

ある意味余談になるが、是非付け加えておきたいことは、日本語には、そもそも全知全能の創造主を表す言葉が存在していないことである。なぜならそういう概念がこの民族には存在しないから、その言葉が生まれなかったのである。便宜的に転用した「神」という言葉は、元々は道教、儒教、古代中国思想に由来しており、日本では長らく神道における神を指す言葉であった。すなわち、異なった概念を持った実態に使われていた神という言葉を、他に言葉が無いので、転用して創造主を表す言葉にしたに過ぎない。

ただ、長く転用されてきた結果として、「人間を超越した威力を持つ、かくれた存在。人知ではかることのできない能力を持ち、人類に禍福を降すと考えられる威霊。」という説明が為されるようになっている。日本人の「融通の効く」特性により、あっさり転用して有効に用いている。

「神」という言葉は神道の言葉であるから、決して全知全能の創造主を表す言葉ではないと、この「神」という言葉を排除する見解もある。キリスト信仰が日本に伝えられてから様々な迫害を乗り越えて長い年月を経て、今や軽視されるような存在ではなくなり、「神」という言葉が持っていた元々の意味を半ば駆逐してしまった感さえある。

私自身も永く「神」という言葉は天地万物の創造主に当てはめるべきではないと考えていたが、条件付きで然るべき修飾語を附記して用いた場合にすっきりするのではないかと思っている。すなわち、「天地万物の創造主である神」と、神の意味することをしっかり定義した上で用いるなら、簡便で、また耳障りも良い言葉であると思い始めている。