(1)種類にしたがって

神は、種類にしたがって野の獣を、種類にしたがって家畜を、種類にしたがって地のすべてのはうものを造られた。(創世記1章25節)

創造の御業の最終日六日目、神は最初に陸に住む動物を創造なさった。25節を読んで気が付くのは、この短い文章中に「種類にしたがって」と3回、すなわち言葉の半分は、この「種類にしたがって」なのである。24節にも2回、つまり陸の動物の創造に関して、この言葉を5回繰り返して述べられている。さらに、水に住む生き物の創造に1回、空を飛ぶ生き物の創造に1回、「種類にしたがって」と述べられている。この「種類にしたがって」という一言が、どれほど重要であるかがよく分かる。

さらに、生き物ではないが植物に関しても、動物と同じDNAという道具を使って遺伝情報を子孫に伝えるように造られたので、「種類にしたがって」という言葉を3回使って表現されている。

科学が進歩する以前、ある意味で現代の科学の複雑な知識を獲得した今よりは、人々は「種類にしたがって」を、むしろしっかりとその本質を把握していたように思われる。先人の知恵として数多くの様々な諺にその証拠が残されている。一応、日本語と英語の諺、三例を揚げてみると、

「蛙の子は蛙」、説明は不要だろう。英語圏では、「リンゴの実はその木から遠いところには落ちない。」という表現であるが、同じ意味である。「この親にしてこの子あり」という日本語の諺に呼応して、「息子は父親と似る」というずばり同様の表現をされている。

「瓜の蔓に茄子はならぬ」、子は親に似るという同様の諺で、英語圏では「鷲は鳩を生まない」という諺がある。これは「良い悪い」の評価抜きに遺伝を語っているだけという感じがする。悪い意味が含まれているものとしては、「悪い穀物から良い種子は出てこない」という諺もある。そして、聖書に同じようなことをイエス様が語られている。

ぶどうは、いばらからは取れないし、いちじくは、あざみから取れるわけがないでしょう。(マタイの福音書7章16節)

これらの諺がどのようにして生まれたかは分からないが、少なくとも現在余り良い意味で使われないことが多いかも知れない。しかし、複雑な感情移入をしないで見ると、遺伝情報をスパッと伝えている格言である。蛙の子はどこまでも蛙であり蛇にもスズメにもならない。瓜の蔓には茄子やトマトなど別の種類の植物はならないというのは、自明の遺伝である。

(2)野の獣、家畜、這うもの

創造された地上に生きる動物を、「野の獣」「家畜」「這うもの」と、主は大きく三つに分けられた。進化論的思想に毒された私たちは、この分類が何となく分かりにくい気がしないでもない。「這うもの」が別扱いになっていることは理解出来るとしても、野に住む獣と家畜とに分けられたことが理解しにくいかも知れない。この地上に必要な生き物のうち、獣を人からは少し遠くに離れて生きる生き物として野に住むようにされて、これとは区別して、人と近くに住んで親しい関係を持つ動物として家畜を創造して人に与えられたのである。這うものもまた、野の獣とは別の範疇の生き物であるが、人とは一線を画した生き物として創造なさったことが分かる。

この時から約六千年を経た現在の地球、説明する必要もないだろう。野の獣と人との棲み分けが混線して、言うなら野の獣が大迷惑を蒙っているのである。地球を然るべく治めなさいと命じられた人類は、任務を果たさず、宇宙空間に及ぶほどに地球全土を乱したために、野の獣の生きる場がなくなってきているのである。生きる場を奪われた野の獣は、やむを得ず人の住みかに侵入してきているが、人の住みかを荒らしに来たわけではない。人が彼らの住処を奪ったので、追われてきただけのことである。そして、人の目から見て、人の生活を荒らし、家畜や家禽を襲う「恐ろしい獣」「悪い獣」という認識になってしまい、特に人を傷つけた熊やイノシシは殺処分すべしという一般の合意になってしまっている。

(3)準備万端終了

地上に人を置くために、全知全能の神が準備万端終了なさった状態を眺めてみよう。宇宙の中核に太陽系が存在しており、その太陽系の中心に地球が存在している。太陽の周りを、地球を初めとして惑星が、それぞれ定められた軌道を規則正しく周回している。地球は唯一の水の惑星として存在し、そして海が一つ、陸地が一つあって、陸には緑の木々に花が咲き、実を豊かに付けている。

海には様々な水に生きる生き物が泳いでおり、空を鳥が悠然と舞っており、また樹に羽を休めている。野の獣は、野山を駈けたり、悠然と坐って太陽の日を浴びていたりしている。海に於いても、陸に於いても動物同士の争いは一切なく、全て平穏な状態である。

主は創造の工程の区切りごとに、点検をなさった。創造なさった光を見て「よし」、地と水を分けて「よし」、成熟した植物を創造されて「よし」、大空に太陽、月、星を創造されて「よし」、水に住む生き物、空に住む生き物を創造して「よし」、そして、地に住む生き物を創造なさって、再び「よし」と確認し、満足された。準備が滞りなく、完璧に終了したことを確認されたのである。

1章25節は、先に引用した後に、「神はそれを見て良しとされた。」と書かれて終わっている。人を地上に創造される前の準備は全て「よし」と見られたのである。