全能の神による創造

[9]善悪の知識の木
(1)最初の世界を覗き見る

全知全能の神が創造された世界は、どのような欠点も見出せない完璧な世界であったということを、肝に銘じておかなければならない。主が最初に定められた自然法則のもとに、全てがつつがなく美しく経過するように創造されたのである。通常の事柄であっても、欠点がないとか完璧とかということは、理解しにくいことである。まして、創造された宇宙、地球、海、山や川、植物、動物、そして人間を考えるという壮大な命題に及ぶと、今の人類には言葉としては存在しても、理解の遙か彼方にかすんでしまうが、それは致し方ない。

 少しだけ具体的に考えてみると、人と動物の食物として草や木、植物が与えられた。「草だけでは栄養が足りないだろう、まして肉食動物は生きていけない」などと議論する人もいたが、聖書の記述に真っ向から逆らう見解である。ライオンやトラなどは肉食動物として創造されたわけではない、草を食べて健康に生きていけるように作られたのである。それと同時に、生存のために争う必要の全くない世界でもあった。

創造された時のそれぞれの植物の成分は一切分からないが、今とは基本的に異なっていただろうことは想像に難くない。科学が発達して成分分析が行われるようになったこの100年位の間でも、植物の成分の分析値には極めて大きな変動が見られているのである。「路地裏野菜がビタミン豊富で、栄養豊かで良い」と巷で囁かれているのは、根拠のないことではない。

 余談であるが、2-30年前であろうか、草食だけで育てたライオンが健康に生きていたという報告があったので、肉食動物と人が決めつけているだけかも知れない。しかし、どのように飼育したのか、どれ位健康であったのか、ライオンの平均寿命を生きたのかどうかなど、詳細は不明である。

 造られた世界で極めて重要なことは、人も動物も不老不死に創造されたことである。この点は非常に重要であるので、人類が罪を犯した経緯を学ぶ別のセッションで詳述する。完全なものとして創造されたということは、常に健康であり、病気をしたり、衰えたり、老いたり、まして死ぬことはないということでもあったのだが、やはり今の人類には理解不可能なことである。

(2)善悪の知識の木

神である【主】は人に命じて仰せられた。「あなたは、園のどの木からでも思いのまま食べてよい。
しかし、善悪の知識の木からは取って食べてはならない。」(創世記2章16, 17a節)

 創造主は、全てを完全無欠の状態に創造した世界に人を住まわせ、思いのままに行動しても良いという自由をお与えになった。たった一つだけ禁じられたことは、園の中央にある善悪の知識の木の実を食べてはならないということだけであった。豊かな日々を与えられ、ありとあらゆる幸せを与えられ、その中でたった一つの本当に小さなことだけを禁じられたに過ぎないのである。このことを二人がどのように受け取ったのかは分からない。数え切れない程の様々な制約を受けて生きている今の私たちには、禁止事項はたった一つのこの小さなことだけだった状況は、想像を絶する出来事である。

エデンの園の中央に善悪の知識の木を生えさせ、その実を取って食べてはならないという制約を課せられたのは、本当のことを言うと人類にとって途轍もない幸せなことだったのである。全知全能の絶対である神、自分を造って下さった創造主、愛と義の神の判断に従って、全てを委ねて寄り掛かって生きることの幸せが提供されていたのである。それは、人類にとって最高の幸せ、至福のこと、真理の道であり、当然今の人類にとっても最高の道である。しかし、愚かな人類は、「禁止」という言葉に踊らされて奈落の地獄への道を辿る羽目になってしまったのである。創造主に素直に従えば最高の幸せがもたらされるのに、その事実には気が付かなかったのである。目も耳も塞がって神の声が聞こえなくなってしまい、結果的にご命令に従えなくなっているのが被造物である人間の実態である。

(3)名誉ある任務を与えられた

神は彼らを祝福された。神は彼らに仰せられた。「生めよ。ふえよ。地を満たせ。地を従えよ。海の魚、空の鳥、地をはうすべての生き物を支配せよ。」(創世記1章28節)

神は全宇宙が滞りなく動いていくようにと、時を創り、宇宙の全ての法則を定められた。そして最後に、神の御姿を映して創造された人が大いに繁栄するようにと祝福を与えられた。そして、地球と地球に住まいする動物など一切がつつがなく平和裡に推移するように維持し治めるという重大で、名誉ある任務を人に与えられた。

アダムとエバが与えられた「任務・労働」は、極めて重要であると同時に、楽しく、生き甲斐のある労働であっただろう。現在生きている多くの人々にとって、「労働」は命を繋ぐためにしなければならないことであり、「ねばならない」「苦労」「苦しみ」という感覚と直結するという、不幸な人間社会になっている。もっとも、努力は必要だけれど苦しみではなく、むしろ喜びであるという幸せな人々もそんなに少なくはないと、私は思っている。

ともあれ、羨ましいほど、平和で心穏やかな日々であっただろう。この素晴らしい日々はどれ位続いたのだろう?聖書には何日とか、何年とか書かれていないにもかかわらず、いつの間にか暗黙の共通認識になってしまっていることは、創造の第8日目、或いは何日も経たない間に、全世界にとって人類にとって最悪のあの忌まわしい悲劇、創造主に叛逆するという事件が起こったと信じ込んでいる人々が多いことである。

だが、本当にそうだろうか? このことは後のセッションで考えてみることにする。

無垢な二人が幸せに楽しく住むようにと与えられた環境は、言葉に言い尽くせない最高の世界であった。それがどのようなものか、今の私たちには想像することさえ出来ない世界であった。そして、神の庇護下、全幅の信頼を得て、ワクワクするような最高の名誉ある任務を頂いたのである。