全知全能の神による創造について、そして造られた世界、特に人類が如何に大きな祝福を与えられたかについて、前項「全能の神による創造」で学んだ。

歴史に「もし・・・」はないが、それでも前項[10]祝福し聖とされた第七日、で考察したように、創造の経緯に関して、主が重要事項のみ・人類が知っておくべき事項のみ記載されて、書かずに残しておかれた世界の歴史の詳細について、様々な思索を巡らして空想の物語の中に遊ぶことは可能である。

(1)主が詳述せず、余韻を残されたこと

例えば前項で考察したように、人間が想像できる余白のような部分が山とあり、その一つがアダムの叛逆の時期である。これについては、人類はわざわざ述べなくても、記述されていない空白の部分を、勝手に想像して埋めてきたのである。しかも、想像を巡らして決めつけているのだということさえ気が付かないで、普遍的で正しいと半ば信じられてきたところに恐ろしさがある。実際は、叛逆の時期について聖書には明確な記述は一切ないので、完全に想像可能な範疇に入っている。

聖書に書かれていない事柄については、聖書全体に矛盾しない限り想像できる範囲のことは多数ある。そして、そうした行為は、思索を深める意味で有意義なこともあれば、ただの時間の浪費に過ぎないこともあるので要注意である。

笑い話と言うべきか、恥ずべき出来事と言うべきか分からないが、「弟アベルを殺害した罪でノデの地に追放されたカインの妻はどこから来たのか?」と進化論者に詰め寄られて、聖職者が答えられなくて赤恥を掻いた事件があった。キリスト教会を震撼させたこんな事件を起こしたのだから、キリスト教会はしっかり反省し、考えたのだろうか?

(2)事実に反する空想「もし・・・」 

現在地球はボロボロで、今にも粉々に砕け散ってしまいそうな状態である。その上に生息する動物たちも人間も同様にボロボロであり、喘ぎながら「息をしている」状態である。すでに絶滅した動物、又現在絶滅危惧種と見なされている動物は数多くある。人類は生命力が弱っていることと相俟って、互いの苛立ち、憎しみ、怒りが絶えず、殺し合いをして無様な姿をさらし続けている。

このような救いようのない状況は何故起こったのか?クリスチャンなら即座に返事をする「人類の始祖アダムが神に叛逆した罪の故である」。歴史を巻き返して眺めると一目瞭然、全て悪いことの根本原因は、人類史のごく初期に起こった大事件、アダムの原罪に端を発するのである。歴史は描き直すことは出来ない。起こったことは起こったことである。歴史に「もし・・・」という事実と反する想像をすることは、本来は考えるさえ愚かなことである。しかし、このようなことを空想することによって、神の御意志に思いを馳せて、造られた者としての立ち位置を改めて見直すことが出来る場合には、必ずしも悪いことではないかも知れない。

(3)もしアダムが神に叛逆しなかったなら

 現在起こっている悪いことの根源であるアダムの叛逆がなかったら、現在、地球はどうなっているだろう。そして人類はどのような命を生きているだろう?このような愚かなことを思いついた人はいないかも知れないが・・・。

地球も造られたままの美しい姿をしているはずである。それがどんな地球であったのかは、人類は誰も知らないし、想像さえ出来ない。カインのアベル殺しは当然無かっただろうし、そうすると、アダムの後継者はカインかアベルか、あるいは聖書に書かれていない他の子どもたちの一人だったかも知れない。そして、人も動物も、草食で互いの諍いもなかったし、ましてや殺し合ったり食うか食われるかという血なまぐさい争いをしたりなどということは一切起こっていないはず。・・つまり、聖書に書かれている歴史全体は、そっくり白紙返上というか、神は全く別の聖書をお書きになって、人類に与えられたであろう。そして、地球は、今も創造された時のまま、美しい楽園であり、人は楽しい労働しか知らず、神に従って美しい命を生きている。くたびれや老いも病も知らない元気一杯の六千歳のアダムやエバや、数多くの先祖たちと共に私たちの豊かな生活がある。

そして・・・私たちは考える以前に自然に神に従い、守られて、身近に神の息吹を感じて生活している。だが、本当のところ、どんな風であったか、想像を絶する風景である。私たちには、そもそも創造された世界のことを思い浮かべるさえ不可能であるので、このような風景を想像することは不可能である。