罪の世界へ突入

[4]蛇の誘惑

さて、神である【主】が造られたあらゆる野の獣のうちで、蛇が一番狡猾であった。蛇は女に言った。「あなたがたは、園のどんな木からも食べてはならない、と神は、ほんとうに言われたのですか。(創3:1)

ここで悪魔の蛇がいきなり登場する。ボンヤリ聖書を眺めていると、主が悪魔を創造なさったのかと、無意識下であるかも知れないが何となく思ってしまう。主がお造りになったものは全て「良かった」のであり、悪魔を創造なさるはずがない。この大前提を忘れてはならない。1章1節からこの3章1節までの時の流れがどれ位の年数であったのかは分からないが、天使の一部がこの間のいつの時期か主に叛逆してしまったのである。

天使も創造主に造られたものであるが、いつ創造されたのかは書かれていないから分からない。しかし、創3:1以前であることは確かである。地上の出来事ではないので、1章1節以前であるという説もある。

又、天使の叛逆の時期も、創1:1以前の出来事であるという説もあるが、そうとすると、地上の創造は悪魔の邪魔、あるいは少なくとも影響下で行われたことになるのでこれは納得し難い。さらに、創造の完成後、主は全て、すなわち悪魔まで含めて「非常に良かった」と総括し祝福されたのはさらに奇妙であり、到底納得できることではない。従って、天使の叛逆は創造完了後、3章1節までの間であったと考えるのが妥当であると考えられる。

1)無垢な二人と狡猾な蛇

この宇宙史・地球史・人類史上最悪の事件がいつ起こったのか分からないことについて、「祝福の世界の始まり:祝福し聖とされた第七日」の項で、多少詳しく考察をした。これが起こったのが、二人が創造されてから、長い年月の後であったとしても、二人は罪のない無垢の人として生き続けていたのである。罪の権化である狡猾な蛇がやってきて、悪意を覆い隠して善人ぶって訳の分からぬ話を繰り広げても、疑うことを知らない二人が蛇の悪意を感じ取ることはかなり難しかったのではないだろうか。二人は充分な知識と英知を与えられたと想像するが、それでも悪を検知するのは出来なかったのかもしれない。

罪人であり、罪の世界に馴染んでいる私たちでも、日々悪人と接触している警察関係者や法曹界の人々のように、特別な訓練を受けた職業人でない限り悪を見抜く力は鍛えられてはいない。狡猾な蛇は私たちの周りにウジャウジャとうごめいており、絶えず私たちを脅かし、誘惑の魔の手を毒ツタのつるのように、あるいは殺人クラゲ(キロネックス)の長い触手のように私たちをがんじがらめにする。そして、あっさりと悪魔の餌食になってしまう。それが、人の法律に触れるようなことに走らなくても、神のお目には悪と映る様々なことをしでかしてしまうのである。

(2)騙しの手口

蛇は女に言った。「あなたがたは、園のどんな木からも食べてはならない、と神は、ほんとうに言われたのですか。」(創3:1b)

蛇は女に言った。「あなたがたは決して死にません。あなたがたがそれを食べるその時、あなたがたの目が開け、あなたがたが神のようになり、善悪を知るようになることを神は知っているのです。」そこで女が見ると、その木は、まことに食べるのに良く、目に慕わしく、賢くするというその木はいかにも好ましかった。(創3:4-6a)

この蛇は賢く、悪意の塊としてずるく立ち回る。人の弱点を捉えて誘惑する術を知っている。無垢な二人を騙すくらい「赤子の手を捻る」ように簡単なことである。悪いヤツがいるなどとは夢にも思わない純粋無垢な二人は、美しい姿(ルシファー・明けの明星、イザヤ14:12)をした悪魔・蛇にいとも簡単にコロリと騙されてしまった。蛇は実に巧妙に順序立てて騙しの手口を行使して獲物を追い詰めていく。神は慈悲深くないと神への不信感を植え付け、神の言葉に疑問を挟んでねじ曲げさせ、そして遂に、「あなたがたは決して死にません。」と神の言葉を否定して、神は嘘つきだと結論を押しつけた。

(3)三つの誘惑

・食べるのに良く:生理的、肉体的誘惑

・目に慕わしく:感情、美的感覚への誘惑

・賢くする:知的、霊的洞察力への誘惑

美味しいものを賞味する味覚、美しいものを鑑賞する芸術的能力、そして知的に霊的に洞察する能力などは、いずれも創造主が下さった大切な賜物である。これらの力を適切に制御して用いるようにと備えて下さったのである。

問題は、制御するための心の(たが)を蛇にまんまとはずされてしまって暴走し、これらの賜物を欲望を満たす道具にしてしまったことである。

(4)必ず死ぬ

しかし、善悪の知識の木からは取って食べてはならない。それを取って食べるとき、あなたは必ず死ぬ。(創2:17)

「死ぬ」ということを二人が理解していたかどうかについては、聖書に書かれていないので分からない。先入観が全くない状態、白紙でこの箇所を本気で読めば、誰でもびっくり仰天するのではないだろうか。筆者は正直、びっくりして目がウロウロと動いた。何を書いてあるのだ?読み違えているのではあるまいか?信仰を持つ前であったと思うので、当然のこととして知識の木の実の意味することを皆目理解していなかった時代である。どんなに値打ちのある木の実であったとしても、それを一つや二つ失敬したからと言って即座に死刑とは、ひっくり返っても理解出来ない判決である。

独裁者の気まぐれな我が儘放題の即断であっという間に「粛正」されるような国はいざ知らず、普通の民主的な国の刑法では、諸賢の検討後に合意に至り成文化されている法律に照らし合わせ、然るべき手続きを踏んで罪状認否が行われ、糾弾する側(検事)と弁護する側(弁護士)の立ち会いの上で、裁判官が最終決断を下す。しかも、被告人は異議申し立て(上告)する権利を持っている。

だが、例え如何なる手続きを辿るとしても、知識の木の実を食べただけで、重罪になるとは!私たちの理解を遙かに超える出来事である!

賢くするというその木は いかにも好ましかった。それで女はその実を取って食べ、いっしょにいた夫にも与えたので、夫も食べた。(創3:6b)

この件に関しては次項以下にもう少し詳細に考えようと思うが、主はこれを食べたら、「必ず死ぬ」と非常に強い調子で命令されたのである。絶対に食べてはならないと厳命なさったということだけを肝に銘じて、次の項に進めたいと思う。