罪の世界へ突入

[6]木の実を食べた結果

そよ風の吹くころ、彼らは園を歩き回られる神である【主】の声を聞いた。それで人とその妻は、神である【主】の御顔を避けて園の木の間に身を隠した。神である【主】は、人に呼びかけ、彼に仰せられた。「あなたは、どこにいるのか。」(創3:7-9)

禁止されていた知識の木の実を食べた瞬間、二人の目が開かれ裸であることに気が付き、いちじくの葉を綴り合わせて作ったもので腰を覆った。この木の実を食べたことで、一体何が起こったのだろう?超自然的なことが、一瞬にして起こったことは間違いない。では、具体的には何が起こったのだろう。「必ず死ぬ」の実態が聖書に実に明瞭に描かれているので、詳しく見てみよう。

(1)主を恐れ、主と断絶

木の実を食べた途端に、二人はあんなに慕わしく顔と顔を合わせて話をしていた主である神への恐れが生じ、隠れてしまった。命の源である創造主に離反したということは、すなわち「命は取り去られた」「命を絶たれた」「死」である。

二人が隠れてしまったことを主は悲しく思われたのだろうか、戻ってくることが出来るように「あなたはどこにいるのか」と、呼びかけられた。心が主を離れ、彷徨っていることを重々ご承知の上でこのように問いかけ、二人が自分自身でしっかり悟ることが出来るように機会を与えられたのである。

 アダムは「裸なので、恐れて、隠れました(3:10b)」と返事をした。

アダムが主を恐れて隠れたのは、「裸」であることを理由にしたのであるが、本当にそう思ったのだろうか?裸の自分を造ってくださった方に申し上げるにはまことに奇妙な理由だと思われる。アダムのことは、肉体のみならず心の中まで隅から隅までご存じの御方であることを、アダムは知っていたはずだと思われるにも拘わらず、である。

主である神は、「食べてはならない、と命じておいた木から食べたのか(3:11b)」と重ねて問いかけられた。それに対して、アダムは何とお答えしたのか。

人は言った。「あなたが私のそばに置かれたこの女が、あの木から取って私にくれたので、私は食べたのです。」(創3:12、新改訳)

主は「あなたはどこにいるのか」と呼びかけてくださった。彼らが木の間に隠れているのをご存じなかったのか?勿論、何故隠れているのか、どこに隠れているのかをご存じの上で、敢えてこのように呼びかけられたのである。何故、そのようになさったのか。

ご自身の御姿を映して創造なさった人をいとおしく、大切に思われる神の絶大な愛は限りなく深く、広く、大きくて、背いたからといってそのまま捨て去ろうとは思われなかったのである。「あなたはどこにいるのか?」と問いかけて、彷徨っている心が正気を取り戻して、自分自身の意志で引き返してくるようにと敢えて大切な問いかけをなさったのである。

(2)真実を醜い・恥ずかしいと思う

 この件に関しては、「裸を恥ずかしいとは思わなかった」の項で少し詳細に考察をした。二人は自分たちの裸の姿を、醜いとも恥ずかしいとも思わなかったのである。神様に頂いたありのままの姿を、自然体で受けとめていたのである。それは、赤ちゃんが裸であることをそのままに受けとめているのと違わないと思われる。

 そして、ありのままの姿とは、具体的に目に見える肉体だけの問題ではなく、心のありよう、現実に起こっていることの受けとめかた、心の動きもそのまま自然体で振る舞うことが出来るということである。飾ることも、偽ることもなくそのままである。

 あの木の実を食べただけで、途端に同じ姿が醜く恥ずかしいものに見え、隠さなければならなかったのである。だから、いちじくの葉を綴り合わせて腰を覆って隠した。互いのありのままを直視できなくなってしまったのである。全能の神に創造された最高の傑作である二人が、ありのままを醜いと思い、直視できなかったのである。心のありようもまた、同様に恥ずべきものだったのだろう。自らの心のありよう、神に背いた醜い霊的そして心の姿は直視できるものではない。まさしく体だけではなく、自分自身全存在が死んでしまったのである。

(3)互いの断絶が生まれ、人間関係が破綻した

あなたがこの女を私に与えられたのだから、あなたの責任だ。そして、私が自分から木の実を取って食べたのではない。「この女が悪い!」と主を責め、エバを責めた。そして「私の骨からの骨、私の肉からの肉(2;23a)」と小躍りしてエバを歓迎したのも忘れ果てて、この女が悪い、自分は悪くないと責任転嫁をしてしまった。

余談:同じ箇所を次にあげている新共同訳ではかなりニュアンスの異なる翻訳になっている。上の新改訳と新共同訳に違いがないと思うか、或いは言語学に興味のない方は、読まずに飛ばしてください。

アダムは答えた。「あなたがわたしと共にいるようにしてくださった女が、木から取って与えたので、食べました。(新共同訳)」

 原文がどうであったかは分からないが、英語訳(NKJV & NIV)では「this woman,この女」とは翻訳されてはおらず、普通に定冠詞が付いた「the woman」と訳されている。新改訳では「この女」と翻訳してあり、その為に、この一文がアダムの主に対する恨みとエバに対する憎しみが前面に出ている表現になってしまった。そして、主とこの女が悪い、私は悪くないという心が露骨に出た発言になってしまっているが、それが翻訳者の意図であったのかも知れない。

 一方、新共同訳では主への尊敬は表現されているが、エバに対しては最初の愛情表現は消えており、妻として与えられた女性を「女」と呼んでいるのは突き放した表現だとは思うが、新改訳ほどの強い憎しみが込められた表現にはなっていない。

 新改訳は、翻訳に様々な工夫がされて読みやすい文体になっていると思う。しかし、一方で翻訳者の思い込み?或いは偏見とも思えるような誤訳に近い箇所も散見されて要注意である。確かに翻訳は難しく、そのために英語訳も日本語訳も様々に異なった翻訳が試みられている。筆者は新改訳を中心にして読むが、新共同訳など、また各種英語訳としばしば比較しながら、「主はこう書かれたのだろう」と自分なりに納得出来るところまで読みたいと思っている。ただ、限られた時間とそれ以上に限られた能力の限界があり、いつも中途半端だと自戒しているのではあるが・・・。

 言葉は難しく、厄介な代物である。「女」という表現であるが、日本語では単に性別を言い表しただけではなく、殆どの場合見下した、或いは軽蔑の意味が含まれていることが多い。英語の“woman”は日本語よりはその意味合いは低いかも知れない。原語ではどうなのかは分からない。

翻訳であっても自分の発言であっても、言った途端、書いた途端に自分の手を離れる。本人がそんな積もりはなかったと言っても後の祭りである。その言葉の意味するところは厳しく一人歩きをするのである。

  二人が木の実を食べた瞬間、創造主と断絶し、自分の確かな存在感を見失い、血の通った人と人との関係を持てなくなった。全てが死に絶えた荒野と化している姿は、代を重ねる毎に増幅し遙かに荒れ果てた姿として、アダムの子孫である人類全体にのし掛かってきているのである。初代アダムと多分エバも生きていた間は(ノアの祖父メトシェラ、父レメクまでアダムと同時代に生きていた)、セツの家系にはそれなりの信仰の継承がなされたことが聖書に記載されている。一方、カインの家系は乱れに乱れたことも書かれている。

カインとセツ(信仰を継承した家系の二代目)については明らかであるが、彼らの妻たちがどこからやって来たかは全く分からない。セツの妻でさえ名前も分からず、その出自も明らかにされていない。両家系が混ざり合った可能性については下に考察する。

(4)カインの家系は悪魔の家系か?

セツの家系は神を信じる家系、カインの家系は悪魔の家系で、両家族は完全に隔離された関係であるみたいな思い込みがクリスチャンの間に横行しているようであるが本当だろうか?カインは弟を殺戮した悪いヤツであることは紛れもないが、詫びを入れたので主の憐れみを受け、保護が与えられたのである。そして、カインから六代目のレメクから重婚が始まったが、悪いことばかりではない。カインの家系から、牧畜を営む者、音楽を巧みに奏する者、金属を扱う技術者が生まれた。神から与えられた優れた賜物が、カインの家系で磨かれ花開いたことが聖書に書かれている。そして、そういう技術や芸能が現代にまで引き継がれてきているのである。大洪水によってノアの家族八人以外は全滅したことを考えると、カインの家系に花開いた素晴らしい賜物が、両家系の交わりや婚姻により洪水が起こるより前にノアの家系に引き継がれていたと考えるべきだろう。

(5)肉体の死

「必ず死ぬ」は霊と魂の死であり肉体の死ではないと、多くの神学者たちは頑強に拒絶し続けて来た。なぜならアダムもエバもすぐには死ななかったからである。だが、そのアダムでさえ、930年の長寿を祝福されて、そして死んだのである。

歴史の示すとおり、この「必ず死ぬ」は、人類の始祖、二人だけへの宣告ではなかった。アダムの子孫、全人類に対する宣告であると、聖書にしっかり厳命してあることを見逃してはならない。この悪事により、土地が呪われ、宇宙・地球・人々、植物・動物を含む地上の全ての存在が呪われて、「死の闇」に閉ざされたのである。創世記5章にアダムの歴史として総括してあるのは、アダム存命の間の全歴史である。アダムから「生まれ、生きて、死んだ」「生まれ、生きて、死んだ」とノアの時代までが記されている。すなわち、人類史は凄絶な死の歴史として記されているということである。

 神に創造された被造物である私たちは、神の著書である聖書の御言葉を決しておろそかにしてはならない。「死ぬ」と書かれたのであるから、文字通り「死ぬ」であり、それ以外の解釈は人間の罪のなせる業なのである。

(6)アダムがもたらした死の闇

アダムの叛逆によって、人類が、いやこの宇宙、地球全体が呪いの中に陥ってしまい(創3:14-19)、アダムの子孫、すなわち全人類にこの呪いが延々と引き継がれてきたのである。その死とは、霊魂の死であると同時に肉体の死でもある。現在、地球の崩壊が進んで地球はボロボロになり、人類は破滅の危機に瀕し、心は荒れに荒れている状況を見れば、誰にでも納得がいくだろう。そして、霊的にも病はどんどん拡大し、伝説の毒蜘蛛タランチュラの気味悪い長い脚や殺人クラゲ(キロネックス、海のスズメ蜂)の十数本もある触手のように、創造主から離反させようと力強い魔の手が人に覆い被さり食い込んで来ているのである。

追:タランチュラは人を殺すほど猛毒を持つものはごく僅かである。但しその恐ろしげな姿は凄みを与えるに充分かも知れない。一方、キロネックス(クラゲ)は触手が最長4.5メートルにもなり、その美しい姿とは裏腹に、1匹で60人を殺すほどの毒を持っており、毎年犠牲者が大勢出ているようである。悪魔が美しいルシファーの装いをしてアダムを騙した出来事を彷彿とさせ

「あなたはどこにいるのか?」という問いかけは、アダムとエバにかけて下さったように、主を離れかかっている私たち・アダムの子孫全員に今もなお呼びかけて下さっている言葉でもある。