アダムは、さらに、その妻を知った。彼女は男の子を産み、その子をセツと名づけて言った。「カインがアベルを殺したので、彼の代わりに、神は私にもうひとりの子を授けられたから。」(創4:25)
(1)アダムとエバは不信仰だったのか?
アダムは主に叛逆して、人類に罪をもたらした大悪人、エバは最初に蛇の誘惑に引っかかった心の弱い人間。最初に主の叱責を受けたときにアダムが言ったように、「女は誘惑に弱い。女が悪い」というような評価がキリスト教界に蔓延していないだろうか?そして二人の信仰が語られることは余りないような気がするが、果たして人類の先祖はそんなにも大悪人で、信仰のない人々であったのだろうか?
主に直接創造されたのはアダムとエバだけである。そして、創造された後、主と顔と顔を合わせて、直接話し、愛の交流があり、信頼関係があったと思われる。そして、見つけられた直後のふたりは、悪さを見つけられた悪戯っ子のように、いかにも甘ったれたような幼い仕草で創造主に接している。全知全能の神、自分を創造して下さった権威という恐れおののいた態度ではなく、恐ろしい罪を犯した後でも、イチジクの葉で腰を覆って木の間に隠れてしまうというかわいらしさである。
イエス様が天の父に「あば!」(マルコ14:36)と呼びかけられている「あば」という言葉は、「私たちが天のお父様」とかしこまって呼びかけるような言葉ではなく、むしろ幼子が父親に「とうちゃん!」と甘ったれるような言葉だそうである。私たちがかしこまって「天の父なる全能の主」とか、「御在天の創造主である神様」とか言って天の父を遠くに遠ざけてしまっているような関係ではなくて、二人はもしかしたら、イエス様と同じように「あば!」と呼びかける親しさを創造主に抱いていたのかも知れない。
その甘ったれた対応から一変して、犯した罪の大きさを悟らされた後で、アダムのかわいらしさは吹っ飛んでしまっている。主の叱責に対して、余りにも不信仰極まる態度をとった。この女が悪い、この女を連れて来られた主が悪いと、信じられないようなふてくされた応答をしてしまった。順番に責任転嫁をして自己弁護に徹し、主の御前できちんと悔い改めたという記述はない。しかし主は、偉大な愛の懐に二人を抱きかかえ、新たな人生を歩み始めさせられたことは事実である。
(2)アダムの信仰
アダムの人生については、その後多くの子孫を残し、930年生きたこと以外には何も書かれていないので詳細は分からないが、子孫の信仰から推測してみよう。アダムの子孫(後継者)は順に、アダム930年(数字は生きた年数を示す)→セツ912年→エノシュ905年→ケナン910年→マハラルエル895年→エレデ962年→エノク365年→メトシェラ969年→レメク777年まで続き、レメクからノアが生まれている。
アダムから七代目エノクは、生涯を神と共に歩んだ、「神の人」である。「エノクの一生は三百六十五年であった」と書かれている。「神が彼を取られたので、彼はいなくなった」、彼は死ななかったのである。エノクまでの五代については何も書かれていないが、アダムは初代として、一族の長として生きていたのである。アダムのことが全く書かれていないので、あたかもアダムは死んでしまっているような錯覚にとらわれるかも知れないが、エノクはもとよりのこと、エノクの子、すなわちノアの祖父メトシェラ、父レメクは、アダムと同時代に生きていた。
そして、信仰はアダムから代を経て継承され、世界の始まりのことなど、創造主への信仰をしっかりと伝授されたのではないだろうか。メトシェラの信仰については書かれていないが、その名前は「彼が死ぬ時裁く、贈られる」という意味で、その名に洪水預言が書き込まれ、彼はアダム歴(アダム創造の年を一年として数える)1656年に死に、同じ年に預言通りに洪水が始まっている。
レメクは182歳の時に与えられた男の子を「ノアと名づけて言った。「【主】がこの地をのろわれたゆえに、私たちは働き、この手で苦労しているが、この私たちに、この子は慰めを与えてくれるであろう。」(創5:29)ノアが生まれた時にはアダムは死んでしまっていたので、ノアはアダムには会っていない。しかし、セツの家系はこのように信仰の家系として受け継がれたと思われる。信仰の家系が護られたのは、当然一族の長であるアダムの薫陶によるものであるだろうし、これにエバも少なからず関わっていたと思われる。
(3)エバの信仰
エバの信仰については、明確に記載されている。まず、カインを産んだ時に、「彼女はみごもってカインを産み、「私は、【主】によってひとりの男子を得た」と言った。(創4:1)」エバは主が子どもを下さったということを知っており、それを言葉にして告白したのである。
人類初の殺人という一大事が起こった時には、数え切れない程の数のアダムの子孫がいただろうことは「天地創造」について説明したように明らかであろう。そして、カインがアベルを殺すという大事件が起こってしまったのである。一族郎党大騒ぎになっただろうし、大きな悲しみを得たアダムとエバは、一族が大混乱に陥らないように鎮めることに大変な思いをしただろうと思われる。だが聖書は起こっただろう大騒動については語っていない。
アダムは、さらに、その妻を知った。彼女は男の子を産み、その子をセツと名づけて言った。「カインがアベルを殺したので、彼の代わりに、神は私にもうひとりの子を授けられたから。」(創4:25)
そして、長い年月の経たぬうちに、愛の神は二人にアベルの代わりとなる男の子を授けられたのである。それをエバは、アベルを失った悲しみと新しい代わりを与えられたことを、このように言って神に感謝したのである。「(アベルの)代わり」と名付けられたセツは、この名を喜んだかどうかは分からないが、エバにとってはかけがえのない子どもだったのである。二人の子どもの誕生に際して、エバは素直な信仰告白をしているのである。
(4) 人類の始祖の果たしたこと
クリスチャンの間では、アダムとエバがあの叛逆さえしなければ人類は、地球はこんな無残な状態にはならなかったのに!という思いがチラチラと心の片隅をよぎったりしないだろうか?ともすると「アダムは悪いヤツ」として語られることが多いのではないだろうか?そのためなのか、アダムもエバも自分たちの先祖という感覚よりもむしろ、遠い神話の世界に追いやる方が簡単で楽なのではないだろうか?
だが、六千年という大昔かも知れないが、主と顔と顔を合わせて、親しい尊敬すべき御方として接した体験を持つ二人は、皮の衣を着せていただいて新たな人生を歩み始めたのである。そして、子孫に創造主の思い出を、香りを、正義と愛を継承したのである。そして洪水を生き延びたノアを通して信仰は失われず、例え細々とではあっても、人類に継承されてきたのである。乱れはて、罪まみれになってしまっている二十一世紀のだれ一人も遠く及ばない確かな信仰を持っていた二人であることを、聖書はじっくりと語っていると思うのである。アダムとエバは愛すべき、尊敬するべき人類の始祖であると思うのである。