罪の世界へ突入

[8]「死ぬ」の意味・一般的理解

そこで、蛇は女に言った。「あなたがたは決して死にません。それで女はその実を取って食べ、いっしょにいた夫にも与えたので、夫も食べた。(創3:4, 6b)

(1)人間社会の死亡確認

日本では、医師が心拍停止、呼吸停止、および脳機能の停止を確認して、死亡宣告をする。死亡の判定は医師しかできないし、医師の死亡診断書がなければ、火葬も埋葬も、役所への届け出も出来ない。余談ながら、死亡宣告の後に蘇生することが稀にあるため、死亡後24時間以内の埋葬・火葬が法律で禁止されている。この一式の手続きをもって、人のこの世での命の締めくくりとするのが、少なくとも現行の日本の法律であり、また、細部はともかくおおざっぱには一般の認識である。

さて、アダムもエバもこの知識の木の実を食べたのに死ななかった。死なないどころか、実に930年という長寿を祝福された。エバも、何年生きたかは分からないが、この事件の後も大勢の子どもに恵まれた。このことは、キリスト者の心に大きな疑念を湧き起こすことになった。神の言葉への疑念である。

(2)聖書の言葉の再解釈

人々、特に神学者たちは聖書の「死ぬ」の意味を議論し始めた。主は私たちが考えるような意味で、本当に「死ぬ」と言われたわけではないと、悪魔・蛇の言葉をそっくり採用してしまった。アダムもエバも死ななかったのであるから、妥当な解釈であると思った訳である。聖書の言葉を曲げて解釈するのに慣れ親しんだ罪人は、二人が死ななかったことによって聖書を自由自在に解釈しても良いというお墨付きを貰ったような錯覚に陥ったのであろうか?「現時点では人には分からないから保留にする」という選択肢は取らなかった。それよりは遙かに素晴らしいことを神様は聖書に記して下さったと自分に都合の良いように誤解してしまったのである。

このような安易な解釈は、神学者、一般のキリスト者の常識に合致して歓迎された。神の命令に背いて木の実を食べた途端に、目に見えて起こったことこそ「死ぬ」の本質であったのだ!まず、自分の姿、自分の真実を醜いと思い、直視できなくなったこと。神様に創造された作品であるはずの自分たちを、醜い・恥ずかしいと思い、神様は人の創造において失敗をされたと思ったこと。

第二に、いとおしいと思った互いをうっとうしい、つまらないことを言うヤツみたいな、相互不信、疎ましいと思う存在になってしまったこと。互いの間に越えられない深い断絶が生じてしまったこと。アダムのエバに対する甚だしい裏切りは書かれているが、エバがどう思ったかは書かれていない。ただ、こんな扱いをされて腹が立たないはずはないので、二人の間に深い溝が出来たと思うのが常識的である。

そして最後に、これが一番大切であるが、神との間に埋められない断絶が生じ、主を恐れ、主から身を隠そうとしたこと。死とは霊的な死であり、これら人としての大切な本質を入れる器である肉体の死を意味されたのではなかったのだ!

まさしく、人間的に死に、そして主から、命から切り離されてしまったということは、取り返しのつかない霊的な死に陥ってしまったということである。主が「必ず死ぬ」と言われたことの本質は、まさしくこの霊的な死を指しておっしゃったのである。確かに反逆行為によって二人は神から引き離されたのであるから、「死ぬ」というのは肉体の死ではなく霊的な死であるという解釈がキリスト者に一番気に入ったようであり、キリスト教界の多くの人々を魅了した。死は、霊的な死であり、肉体の死ではないという説は現在まで根強く生き続けている。

余談:実験によって「分かったこと」「分からなかったこと」を明確に仕分けして、分からなかったことは将来の課題として残す。科学者が当たり前のこととして常に行っていることである。どこまでも「この実験条件下でこのような結果が得られた」という以上のことを言うことは許されない。考察をすることはあくまでも個人的な見解として述べることとして許されている。科学の発展は、このようにして間違ったことは修正され補強されるので、常に「現時点でこうである」という視点で見つめているのである。科学には絶対はないので、これ以上でもこれ以下でもない。このようにして科学は一点に留まらず、進歩・発展し続けていくのである。

一方、聖書は絶対である。しかしながら、絶対であるのは原典であって、写本になると多少の写し間違いを含んでいるかも知れないし、数多くの翻訳された聖書は、必ずしも絶対ではない。原典は見つかっていないし、原典に近いと考えられている“聖書”はかなり難解なようで、まして翻訳に頼らなければならない殆どの人々(多分人口の98-99%?)は大変なのである。科学者が聖書を読むとき、前記の科学者としての視点は保持しつつ読むはずである。神学者はこの科学者の視点は持っておらず、しかも、人間の聖書解釈が絶対であるという思い込みは、人間の世界にとんでもない混乱をもたらした。誰もが知っている一番甚だしい例は、ガリレオ・ガリレイの事件である。

(3)神の御言葉「必ず死ぬ」を再考 

 神に叛逆した途端に、(2)に記述したように三種類の死は訪れているから、その限りにおいて聖書的に正しい。ただ、「死ぬ」は肉体の死に関してはどうなのだろう?肉体の死は含まれなかったのであろうか?アダムもエバもその場では死ななかった。しかし、永遠に生き続けたかと問われると、アダムは930年後に、エバも多くの子供たちに恵まれた長い年月の後に死んだのである。そして、子孫たちも長寿に恵まれたが、いずれも死に絶えた。肉体の死は間違いなく起こったのである。「必ず死ぬ」は、成就しているのであるが、930年後ということは、余りにも途方もないことであり、それは別だと今もなお考えている人も多い。

 人間が間違って解釈したに過ぎないので、「死ぬ」と書かれているのであるから、文字通り「死ぬ」であり、それ以外の解釈は人間の罪のなせる業なのである。では、何故、(2)の3つは即座に起こり、肉体の死だけが延々と遅れて起こったのであろうか?次項以下にもう少し詳細に考察をすることにする。