神である【主】は、人に呼びかけ、彼に仰せられた。「あなたは、どこにいるのか。」(創3:9)神である【主】は、アダムとその妻のために、皮の衣を作り、彼らに着せてくださった。(創3:21)

(1)主の見守り

神の命令を好い加減な態度で受けとめて、軽く扱い、そして背いてしまった後で、アダムは自分のしでかしたことの重大性に気が付いたようである。だからイチジクの葉で腰を覆って隠し、主の御前に出ることが出来ず、隠れてしまった。

その一部始終を見ておられた主は、「あなたはどこにいるのか。」と、敢えて問いかけて下さったのである。主は全てをご存じの上で、「どこにいるのか」を、アダム自身が深く考えるようにと声を掛けられたのである。神から隠れることなど出来ないことを、どれほど大きな過ちをしたのかを、自分で悟ることが大切だからである。そして、この問いかけはアダムの心のあり場所に関する重要な問いかけであったのである。アダムの心が主を離れて彷徨っていることを自ら気が付き、主の御許に戻ってくるようにという問いかけであったのである。だが、アダムは自分のしてしまった恐ろしい過ちを、主の御前に告白して詫びることもせず、ただ隠れてしまったのである。

主の愛に溢れるこの呼びかけは、アダムに対しての呼びかけだけではなく、主を離れてしまっている人々に対する呼びかけである。創造主を知らず、認めようとしない多くの人々、そして又、信仰者であっても時々心が彷徨い出るときに、このように呼びかけて迷子にならないようにと注意をして下さるのである。

(2)皮の衣

二人はイチジクの葉を綴り合わせて裸を隠したが、主は皮の衣を作り、大きな罪を犯した二人に着せて下さった。この一節をボンヤリ読んでいると、「あぁ、そぅか。イチジクの葉では可哀想だから、きちんとした服を作って下さったのか。優しい神様!」でお終いになってしまうという、ピンボケの理解をしてしまいそうである。

主が着せて下さったのは、植物の繊維で作った衣ではない。「皮」の衣である。皮は動物の皮であるから、動物が殺されて剥ぎ取られたものである。すなわち、主自ら動物の血を流して皮を剥ぎ、二人のために衣を作って下さったのである。完璧で汚点一つない宇宙を創造なさった主が、自ら手を汚して大切な命の血を流されたのである。

命そのものである血を流さないでは、二人の重大な罪を覆う術はなかったという、主のメッセージだったのである。私たちは創造して下さった主に背くことがどんなに大きな罪であるかを全く理解していない。旧約聖書に書かれている羊を犠牲にして血を流す礼拝の記述に、吐き気を催すほどの嫌悪感を抱いた人も少なくないだろう。それは、意識に上らなくても、自分自身の罪の重大さに圧倒されているということかも知れない。

(3)皮の衣の意味

皮の衣を着せて下さったことの意味を、今一度考えてみよう。先に述べたように、創造主に背くことが赦し難い大きな罪であるということである。命そのものである血を流さなくては覆えないほどの途轍もなく大きな罪であり、動物、羊の血を流してもそれは一時的な贖罪の行為にしかならないということである。贖罪の形を示されたということである。この出来事が原始福音と言われる所以である。

動物の血を流さなければならないほど大きな罪であったということ、人間の罪を購うために羊の血を流しても、それは一時しのぎの贖罪の行為であること、今後の人間は生まれながらに先祖、アダムから引き継がれた罪(原罪)を担っているので、この贖罪の行為を行い続けなければならないことをアダムは知っていたと思われる。どのような方法であったかは分からないが、主が教えられたのだろう。だから、この儀式が子々孫々受け継がれ、残酷でおぞましい歴史として、旧約聖書に記述されているのである。

(4)イエス・キリストの十字架

人類全体が創造主を無視して罪を犯し続け、罪が地に満ち満ちてきた約二千年前、神はひとり子イエスを地上に遣わされた。そして、神の子イエスは、人類の全ての罪を一身に背負って十字架の恥と苦しみをお受けになり、血を流した後に死んでよみがえり、天にお戻りになった。

罪の一切ない神の子イエスのこの犠牲によって、人類の罪は全て購われたのである (ルカ24:46-47) 。動物の血をいくら流しても、一時しのぎの贖罪でしかなかったが、神の子イエスの尊い血は、過去現在未来の人類の一切の罪を贖うことが出来たのである。これこそ真の福音であった。このイエス・キリストの十字架によって、創造主の赦しを得ることが出来るのである。

神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに、世を愛された。それは御子を信じる者が、ひとりとして滅びることなく、永遠のいのちを持つためである。(ヨハネの福音書3章16節)