罪の世界へ突入

[7]「死ぬ」の意味・アダムの理解

しかし、善悪の知識の木からは取って食べてはならない。それを取って食べるとき、あなたは必ず死ぬ。(創2:17)

(1)アダムに下された厳命

緑の葉を茂らせた木々には色とりどりの花が咲き、また樹木には「見るからに好ましく食べるのに良い」様々な果物が豊かに実っていた。そのエデンの園には、動物たちが楽しそうに戯れている。そういう園の中央に植えられていたいのちの木と善悪の知識の木はどんな木だったのだろう?それぞれどのような果樹だったのだろう?どのような素晴らしい実を実らせていたのだろう。知識の木の実は「まことに食べるのに良く、目に慕わしく」と描写されている。他の樹木よりどれ位美しかったのだろう?美味しそうだったのだろう?だがこの知識の木が特別に素晴らしく、特別に美味しそうだったわけではなく、他の木々についても、非常に素晴らしい木々で、美味しそうな実をならせていたと、実質的に変わらないことが書かれている。神様が非常に意地悪で、食べてはいけないと敢えておっしゃった知識の木の実だけ「見た目に素晴らしく美味しそうな外見」を与えられたわけではない。いずれも美味しそうだったのである。そして、その一方だけ、知識の木の実だけを食べてはならない。「食べたら必ず死ぬ」と厳命なさったのである。

先入観が全くない状態・白紙でこの箇所を本気で読めば、誰でもびっくり仰天するのではないだろうか。筆者は正直、びっくりして目がウロウロと動いた。何が書かれてあるのだ?読み違えているのではあるまいか?信仰を持つ前であったと思うので、当然のこととして創造主への畏敬の念など持ち合わせていないし、知識の木の実の本当に意味していることも皆目理解していなかった時である。どんなに値打ちのある木の実であったとしても、それを一つや二つ失敬したからと言って即座に死刑とは、ひっくり返っても理解出来ない判決である。

しかも、アダムとエバはとんでもない刑罰を受けることが分かっているのに、二人にとって別に変哲もない木の実を取って食べるような愚かで危険なことを、一体何故しでかしたのだ?これも分からない。

(2)二人の行為を現代社会に置き換えてみる

 自分自身をアダムかエバの位置に置いて思い浮かべて見よう。あなたは日々、素晴らしいご馳走にあずかっている。1インチの特上牛肉のステーキ、特上の松阪牛のすき焼き、鯛やマグロなどの大きくて新鮮な刺身の乗っかった鮨、或いは中華料理、フランス料理のフルコース等々、様々なメニューの中から、いつでも好きなものを好きなように選んで食べても良く、満ち足りている。毎日の生活は、物質的にも精神的にもゆとりがあり全く自由で満ち足りた生活を送っている。

無数の「しなければならないこと」と「してはいけないこと」にがんじがらめに束縛されている私たちには、空想することさえかなわない自由な生活を謳歌しているとしよう。してはいけないことはたった一つ、あるフランス料理の、或いは日本料理のあるメニューだけ、「このメニューは美味しいですが、あなたは選んではいけません。もし食べたら、必ず死んでしまいます」と但し書きがついている。食べても良い他の多くのお料理と何も変わったことはなく、いずれ劣らず美味しそうである。

美味しそうなお料理がふんだんに備えられている棚の中にある一品、「食べてはならない。食べたら死刑になると教えられている」のに、敢えて窃盗のような真似をして禁じられているご馳走を食べたいと思うだろうか?自分なら、まかり間違っても、この誘惑には引っかからないだろうと、誰でも思うのではないだろうか。それなのに、アダムとエバは、それを盗んで食べたのである!何故!分からない。蛇(ルシファー)の美しい姿と甘言にコロリとだまされてしまったのであろうか?

(3)アダムは主の命令をどう理解していたのか

 聖書に書かれていないことを、あれやこれやと憶測するのは愚かであるのでしてはならないという見解は基本的に正しい。ただ、この「事件」の本質「アダムが犯した罪の本質」は、そっくりそのまま全人類を最後まで支配する大問題であるので、理解しておく必要があると考えられるので、敢えてあれこれとほじくってみることは結構意義があると思われる。

「死ぬ」ということを二人が理解していたかどうかについては、聖書に書かれていないので分からない。だが、余りにもあっさり蛇の誘惑に引っかかって勝手な行動をしたことを考えると、アダムもエバも「死」を理解していたとは思えない。文字としての多少の知識はあっただろうが、本当の意味で理解はしていなかったのではないか。そして、実際先に食べたエバには何の変化もなかったので、アダムは安心したのかも知れない。

 しかしながら、「死」を理解していたかどうかは、本質的にはそんなに重要な問題ではない。主は「木の実を取って食べてはいけない」と命令されたのである。この命令を余りにも軽く、粗略に扱ったような気がするのである。

アダムは創造主をどのように理解していたのだろう。顔と顔を合わせて、親しく話が出来たという関係であった。そのために、友だちのような感覚を持っていたのであろうか?もしかしたらエバはそうだった可能性はあるかも知れない。だがアダムは、短い時間であったかも知れないが、動物は仲間にはならないということを、身を以て学習させられたのである。また、主がどのような御方であるかを、大切な体験を通してじっくり学ばせて頂けたのではないだろうか。自分の「骨と肉」から主ご自身の御手によって、相棒エバを創造して下さったことを主に教えられたのだろう。だから、エバはまさしく「自分の骨からの骨、肉からの肉」であることを体験的に学ばせられたのである。自分の相棒が主ご自身によって造られた者であり、自分自身も同様に主に創造された者であることを、まさしく骨身にしみて知っていたのである。私たちとは桁違いの理解を、頭脳・知識として、そしてそれ以上に体験的に主を知っていたのである。

二人は、特にアダムは何故神の命令に背いたのだろう?ただの木の実だから、余り真剣に受けとめていなかったのか?そして、その弱みを狡猾な蛇が見抜いて、攻撃してきたのであっさり負けてしまったのか?