罪の世界へ突入

[5]木の実を食べただけ?

賢くするというその木は いかにも好ましかった。それで女はその実を取って食べ、いっしょにいた夫にも与えたので、夫も食べた。

このようにして、ふたりの目は開かれ、それで彼らは自分たちが裸であることを知った。そこで、彼らは、いちじくの葉をつづり合わせて、自分たちの腰のおおいを作った。(創3:6b-7)

(1)事件の舞台

さて、事件が起こった舞台を思い浮かべてみよう。この時地上にどれ位の人が存在していたのか私たちは知らない。二人と蛇以外に、多くの人々(アダムの子孫)がいただろうと思われる。しかし、舞台で演じているのは二人と、美しい姿をまとい、優しく語りかけて目眩ましを食らわすルシファー(悪魔・蛇)だけである。

この事件より以前に(どれ位以前かは不明であることに注意)、知識の木の実を食べてはいけないという命令を受けたのはアダムである。この時点ではエバはまだ創造されていなかった。

この事件がどのようにして推移したのかを、聖書の記述に従って、一コマずつ脳裡に描き出してみよう。蛇と会話を交わしたエバと、そしてアダムもその場に一緒にいた。エバは悪魔の蛇の巧妙な誘惑にまんまと引っかかって、食べてはならないと命じられていた木の実を食べてしまった。ちなみに、アダムは主のこの厳命をエバに正しく伝達していたと仮定しよう。「いっしょにいた夫にも与えたので、夫も食べた」と、聖書に明確に書かれている。

アダムがエバに同意したのかしなかったのか分からないが、少なくとも「主の命令に背いてはいけない」と制止しなかったのは事実である。エバが騙されるのを黙認していたのであり、そして、エバのすぐ後で食べたのである。アダムも一緒に騙されていたのであり、そして同意して食べたということが書かれている。

この愚かな行動に関しては、人類の運命を左右した大事件であるから、多くのクリスチャンたち、特に聖書解説者が様々に議論を繰り広げている。

(2)即刻死刑執行が行われた

二人が木の実を食べた瞬間に、「二人の目が開かれた」。主が宣告されたように、まさしく即座に二人に死刑執行が行われ、同時に宇宙・地球全体が呪われ、死の闇に閉ざされてしまったのである。・・・このことに関しては、次項でさらに共に考えたいと思う。二人がしたことは「知識の木の実」を取って食べただけである。それで、即刻死刑などとは私たちには到底理解出来ることではない。前項で多少考察を加えたが、今の世に生きている罪人である私たちには、即死刑などは理解出来ない出来事である。

 聖書を読むときに、私たち罪人が理解に苦しむ出来事は山ほど出てくる。罪人は罪人の視点でしか聖書を読むことが出来ないということである。その時に「罪人の常識、良識?」を適用してしまうので、混乱の渦の中に落ち込んでしまうのである。

(3)二人が犯した罪

「知識の木の実を食べてはいけない」という命令が下されているのに、「取って食べた」ということは、どのような罪になるのだろう?罪人である私たちは、単純な窃盗罪、しかも「たかが木の実」位の感覚しか持たない。果たしてアダムはどうだったのだろう?直接御顔を拝し、話をするという光栄に浴していながら、自分を創造して下さった神の命令を軽くあしらい、いとも簡単に背いてしまった。

アダムとエバは一体どういう罪を犯したので死刑になったのだろう?食べたのはただの木の実ではなく、「知識の木の実」であったという事実は重要であるだろう。その知識とは、被造物である人間が創造主である神を全てのことの中心軸に据える「神中心」を捨てて、人間中心思想に鞍替えしたのである。その知識の木の実はどんなことがあっても食べてはいけない木の実だったのである。

ただ木の実を食べる行為そのもの以上に重要なことは、神が「必ず死ぬ」と言われたのに、「決して死にません」という、蛇の言葉の方を信じてしまったことが問題なのである。神の命令を軽くあしらい、蛇の誘惑に引っかかって創造主に背いてしまったことが問題なのである。創造して下さった神、いのちを下さった神に叛逆するということは、当然死罪に値する悪事である。・・・この記述に、「当然でしょ」とキリスト者なら頷くだろうと期待している。

罪極まった私たちはというと、そもそも神の声が聞こえなくなってしまい、私たちの耳には自分の内側からの声、悪魔の声、そして微かな神の声など様々な声が届いて渾然一体となり区別さえ出来ない。聖書をまともに読むことさえ出来なくなってしまい、聖書の一部を削除しようが、勝手な言葉を付け足そうが、自分の好きなように解釈して読もうが、それを罪とさえ感じない堕落ぶりである。