人とその妻は、ふたりとも裸であったが、互いに恥ずかしいと思わなかった。(創2:25)

(1)造られたときは裸だった

二人が創造された時、裸だったということについては、何度も何度もこの箇所を呼んでいるにも拘わらず、「あっ?裸だったのか」と、初めて気が付く人が意外にも大勢いるようである。そして、「恥ずかしいと思わなかった」という記述まで、多分あんまり考えないで目の前を素通りしてしまうのだろうか?

一方、注意深く読む人は、この記述になにがしかの違和感を覚える筈である。私たちは「罪人である」と仮に知識として知っていても、意識の中核に「でん!」と居座っているわけではないし、まして感覚として捉えている訳ではない。しかしながら、アダムから延々六千年受け継がれ、増幅してきた罪は体中に染み付き、一つ一つの細胞に平等に色濃く生き生きと活躍しているのである。無意識下に活躍している罪の感覚、罪の感性の中で生きている人類にとって、裸が恥ずかしくないわけはないし、公共の場で裸で生活してはならないのである。

(2)「裸だった」のいくつかの解釈

そういうことで、この一節を深く掘り下げ、頭を悩ませ、考えを巡らせて、どのように解釈すれば良いのかについて、人々は考えた。二人の目は何かの手段で見えなくなっていたのではないかという説がある。そして、二人が木の実を食べた瞬間に目に張り付いていた何かがぽろりと落ちて、目が開かれたという説である。同様の出来事が使徒パウロに起こったと新約聖書に書かれている(使徒9:3-9, 17-18)。だが、そうとするとアダムとエバは、罪を犯すまでは盲目であったことになり、はなはだ奇妙なことになる。神は盲目の人をお造りになったということになる。しかも、罪を犯したことにより、盲目が癒やされたことになり、真逆の話になってしまう。

いくつかの説のうち、かなり支持者の多い説は、二人はシャカイナ・グローリー、キリストの光に覆われていたので、いわゆる衣服はまとっていなかったにしても、実質裸ではなかった。すなわちあくまでも、創造された最初の人は裸であっても、裸が見えないように隠されていた。シャカイナ・グローリーの光に包まれているので、内側は裸でも、外側はシャカイナ・グローリーの光によって美しく輝いていた。最初の人はそのようにも美しい被造物であったという仮説は、大勢の人に歓迎された説であった。罪を犯した瞬間に、主は二人を離れられたので、折角覆い隠されていた裸が曝されることになった!のだと、訴えかける説である。この点について、次の(3)にもう少し触れることにする。

(3)「裸だった」を原点に立ち帰って考える

聖書をどのように読むべきかについて、聖書自身が指針を与えている。聖書はそのままに受け取るべきもので、聖書の記述を曲げたり、省略したり、勝手な解釈をしてはならないと厳命を下している。創造主の著書である聖書に、被造物である人間が勝手に手を加えたり、罪にまみれた解釈をしたりしてはならないのは極めて当然のことである。

「裸」を「恥ずかしいと思わなかった」と書かれているから、その通りなのである。見えなかったとか、キリストの光に隠されていたとかは書かれてはいない。だからこそ、「裸が恥ずかしくなかった」という記述が必要だったのであり、見えなかったり、隠されていたりしたなら、恥ずかしいも何もないだろう、見えなかったのだから。

 しかし「裸が恥ずかしくない」ということは、罪まみれの人間にとってあり得ないことであり、耐えがたい記述である。そこで、上等に造られた賢い頭は、罪にまみれた解釈、衣服の代わりにシャカイナ・グローリーを着せて「醜い裸」を神様が隠されたと考えたのである。

 だが、ここで原点に立ち帰って、何故、アダムもエバも裸が恥ずかしくなかったのかを考え直してみよう。宇宙・地球・植物・動物そして人間、全てのものが美しく完璧に創造されたのではなかったのか!本来、裸の人間は最高に美しい被造物であり、恥ずかしいものではない。造られたそのままの姿が最高に美しい作品であることを、罪人は忘れ果ててしまって、アダムとエバが裸を恥ずかしく思わなかったことを奇異に思ってしまうのである。

 「非常に良かった」と創造主がご自身の作品全てに満足されたのであり、アダムもエバも互いをそのままに受け容れて満足したのである。肉体も含めて自分たちの存在そのものを「良い」と思い、満足したということである。創造主に造られた人間は、最高の作品であった。人間の内側も外側も、そして敢えて言えば、体の内臓や代謝反応など体内で起こる全ての反応まで、そのままで至高の作品であったのである。それを恥ずかしいはずがないし、人間の作った衣服で覆い隠せば、見にくくなるだけの話しである。